任天堂の『ポケモンスナップ』開発の失敗と、伝説の『ジャックと豆の木計画』

任天堂のゲーム
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どうもみう太です(ΦωΦ)

任天堂の公式サイトを見て知ったのですが、Nintendo Switch(ニンテンドースイッチ)向けに開発されている『ポケットモンスター Let’s go ピカチュウ / イーブイ』の予約が2018年7月13日から開始されたようですね。

これまでのポケモンとはまた違ったシステムやゲームデザインになっていて、最近のポケモンを複雑に感じていた方にも楽しめる、間口の広い作品になっていそうです。

ゲームボーイで発売された『ポケットモンスター ピカチュウ』がベースになっているそうなので、当時リアルタイムで遊んでいた私も気になっています(ΦωΦ)

ポケモンスナップと『ジャックチーム』

今回の『ピカチュウ / イーブイ』はシリーズ本編に数えて良いのか微妙なところですが…、ポケモンのゲームといえば他にも『ポケモンスタジアム』や『ポケパーク』、『ポケモン不思議のダンジョン』、更には『名探偵ピカチュウ』などなど…、スピンオフ作品も数多くリリースされていて、いずれも一定の評価を得ています。

そんな中、1999年にニンテンドー64で発売された『ポケモンスナップ』はご存知でしょうか?

少年カメラマンである『トオル』を主人公に、『ゼロワン号』という乗り物に乗って様々なポケモンの写真を撮るという一風変わったゲームですが、およそ50万本を売り上げたヒット作となっています。

このゲームを開発したチームはWikipediaに『ジャックアンドビーンズ』と書かれていますが、このチームについては『ほぼ日刊イトイ新聞』に詳細が残されていて、『ポケモンスナップ』を生み出すまでにかなりの紆余曲折があったようです。

今では考えられないようなプロジェクトになっていたので、今回はそんな『ジャックと豆の木計画』について取り上げてみようと思います!

チーム参加者には今や『幻のような』の面接

ポケモンスナップを開発した『ジャックアンドビーンズ』というチームは、珍しいことに大半が任天堂と無関係のクリエイターで構成されていました。

当時『HAL研究所』の社長であった岩田 聡さんや、任天堂の情報開発部長であった宮本 茂さんは、『ゲームクリエイターは現状に満足していないのではないか?』と思っていたそうです。

任天堂の中ではそのような悩みは少なかったのですが、他の小さな開発会社では仕事や経営が厳しいところも多く、クリエイターが思い通りのものを作れていないという話を耳にしていたため、『何か任天堂でサポートをしたい』というのがプロジェクトの始まりだと語られています。

この話がコピーライターの糸井 重里さんの事務所で出た後に、岩田さんが任天堂の山内 博社長の前で口にしたところ、『新しいモノ作りへのチャレンジを呼びかける』という企画が正式に決定しました。

当時はニンテンドー64の発売前であり、宮本さんも『スーパーマリオ64』を開発している最中でしたが、長期的な投資をするプロジェクトもあった方が良いと判断し、この計画に賛成をしています。

山内社長は糸井さんに実行委員長を務めて欲しいとお願いし、サードパーティ代表として『チュンソフト』社長であった中村 光一さんも評議委員に加え、『ジャックと豆の木計画』というプロジェクトが始動しました。

できるだけ組織の制約を受けず、自由にゲームを開発できるという環境を整えて、『新しいものを作りたい』と感じている他社のクリエイターに募集をかけたところ、なんと550人を超えるほどの応募があったそうです。

書類選考を通過したおよそ50人には面接があったのですが、この時の面接官が『岩田聡』『宮本茂』『糸井重里』『中村光一』、更に最終面接ではゲームボーイの生みの親である『横井軍平』も加わり、今となっては伝説的な面接といえるかもしれません。

最終的に面接に合格したメンバーの人数は明らかではありませんが、個人のコメントを見ると『会社の経営が厳しくて次の仕事を探していたのでプロジェクトに応募した』『丁度フリーで活動しようと思っていた時に募集を見た』など、それぞれ知識やスキルはありながらも、現状にを満足していない方が多かったようです。


『チームの自立』が裏目に出た開発環境

満を持して開始した『ジャックと豆の木計画』ですが、面接で採用されたメンバーは別の仕事が途中だった人も多かったので、まずは自分の仕事を終えてからプロジェクトに参加することになり、オフィスは8月から開いていたものの、実際に全員が集まったのは翌年の3月とかなり遅くなってしまったそうです。

最初は4人ほどの少人数でプロジェクトが始まりましたが、メンバーが揃わない中で勝手に企画や開発を進める訳にもいかず、部屋の掃除や家具の調達、開発ツールの確認など初歩的なところからスタートしました。

発案者である岩田さんと宮本さんは『こんな環境で開発がしたかった!』と思ってもらえる場にしたいと考えており、できるだけスタッフに制約のない、自由で自立したプロジェクトを計画していました。

そのため、敢えて明確な方針をメンバーに伝えず、プロジェクトの参加者の中で議論を重ねて、自然と生まれたリーダーが舵を取って作りたいものを作る…を理想としていたのですが、実際はそれぞれ違う環境から参加したメンバーだったので、なかなかコミュニケーションも上手く行かずにリーダーが不在のまま、開発はしばらく膠着状態に陥ってしまいました。

メンバーも宮本さんや岩田さんといったカリスマの下で指導して貰えると考えていたのに対し、実際はどのようなゲームを作れば良いのかの指示もなく、本当にこれでゲームが作れるのか不安に感じるようになり、『思っていたのと違った』『来なければ良かったと思った』と思い始める人も少なくありませんでした。

また、厳しい審査を通ってきた弊害で、『俺はプログラマーで採用されたから』『私はデザイナーだから』という理由で他の仕事をしたがらず、アイデアの共有が上手く行かない部分も大きな要因だったようです。

岩田さんと宮本さんもこれに関しては後に反省しており、制約が少なければ良いという訳ではなく、『このチームは宮本の価値観でやる!』と最初から打ち立てていれば、大きな混乱もなく一丸となってプロジェクトを進められたかもしれないとコメントしています。

現場の空気が重いまま、何とか『写真を撮ること』がゲームの題材に決定し、岩田さんや任天堂開発部の手塚さんは『これは面白くなる』と確信していたのですが、プロジェクトのメンバーは『写真を撮るだけで面白くなりますか?』と疑問を抱えていました。

任天堂はこれまでいくつものゲームを開発してきた経験則があるのですが、メンバーは知識やスキルはあるものの、以前の現場では部分的な作業しか経験がなかったので、0からすべてを作り上げたことが1度もなく、ゴールがどこなのかビジョンが見えないのが問題だったかもしれない、と岩田さんは振り返っています。

実際にメンバーは、自分が作ったものを何度も壊して作り直すことに抵抗を覚えたり、あまりに現場が煮詰まり過ぎてチームを潰そうと考えたり、任天堂から応援で参加したプログラマーの関森さんも『正直ヤバイかな』と感じるほど、現場の雰囲気は重たいものになっていたそうです。


『ポケモン』から見えてきた方向性と完成

開発期間中にチームメンバーが自分の分担に閉じこもってしまったり、キーマンであった人物が脱退してしまったり、岩田さんは何度か『これでダメだったらプロジェクトをたたむしかない』と考えたことがあったようです。

しかしその一方で『結果を出さずに終わらせたくない』という思いも強く、『完成する手ごたえを味合わせてあげたい』という気持ちから何とかプロジェクトを解散せずに続けられていました。

『これまでとは違うゲームを作る』というコンセプトの基に立ち上がった『ジャックと豆の木』ですが、その方針を少し変えて『ポケモン』を取り入れたことで目的がより明確になり、そこから開発も少しずつ前を向くようになってきます。

当初は『写真を撮る』というだけでは駆け引きや面白さを上手く出せなかったのですが、ポケモンであればプレイヤーも写真を積極的に撮りたくなりますし、ベストショットを狙うためにアイテムを使ったり駆け引きの要素も生まれてきました。

『ポケモン』という共通のテーマがメンバー内で共有できたことから、みんなが同じ土俵で話し合えるようになり、開発からかなりの時間を経てようやくチームがまとまり始めたそうです。

結果、何とか綱を渡りきり、およそ3年半もの歳月をかけて『ポケモンスナップ』は完成、ローソンやポケモンセンターでのシールプリントも実現し、子供を中心に大きな反響を呼びました。

『結果を出すこと』が何よりも大切であって、開発によってメンバーは経験値を得られるだけでなく、これまでの苦労が報われるような達成感があるからこそ、『次もやれる』という気持ちが生まれてくると岩田さんはコメントしています。

当時、このチームはHAL研究所と糸井さんが共同で開発していたニンテンドー64のゲーム『キャベツ』の開発に充てて、とにかく完成の経験を積ませた方が良いのではないか?という考えもあったのですが、そうすると今度は糸井さんから指示があるまで動けない状況にもなってしまい、『キャベツ』も後に発売中止になったことを考えると、ポケモンスナップを貫き通したのは正解だったのではないかと思います。


理想とクリエイターの食い違い

という訳で、かの『ポケモンスナップ』が世に出るまでには想像以上の苦労があった、という話でした。

当初は『クリエイターの理想の場』を作るハズだったのですが、自由な運営を任せた結果、より空気の重い開発現場になってしまったのは、岩田さんや宮本さんの理想が他のクリエイターにも当てはまるとは限らなかったからかもしれません。

例えば『面白いマップの広さ』を決めようとすると、『ほどほど』がどの作品においても支持されやすいそうです。

ただ、すべてを『ほどほど』にしてしまうと個性のない『ほどほどのゲーム』になってしまうので、そこでしっかりと『広い』か『狭い』かを指示する、そんな体制が必要だったのかもしれないと語られています。

岩田さんや宮本さん、糸井さんのそれぞれに場をまとめるカリスマ性があったが故に、放っておいても自然と同じようなリーダー的存在が生まれると考えてしまい、それが理想と現実の齟齬を生んでしまったようです。

しかし、様々な会社からクリエイターを募って新しいものを生み出すというこのプロジェクトは今では考えられず、面接や評議員の豪華さは今となっては伝説の試みとも呼べそうです。

ちなみにこのプロジェクトに参加した、猪ノ口 幸治さんは後にナムコの『ミスタードリラー』開発に携わったり、竹嶋 章さんは『株式会社そらいろ』の社長としてスマホアプリ『伝説のレギオン』を開発したりと、その後の活躍にも繋がりを見せています。

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